天国編 --- (最初の証し、エサウEsau) --- Ⅱコリ12:2: 私たちが最初の経験をしたとき、私たちはその部屋にいました。部屋は主の臨在から来る光で再び満ち始めました。それはとてもパワフルなものでしたから、部屋全体が明るくなりました。部屋は彼の栄光でいっぱいになり、主の御前にいることはとても素晴らしいことでした。 イエス様は言われました。 「私の息子たちよ、今、あなた方に私の王国を見せてあげます。私の栄光に向かいましょう。」 私たちは手を繋いで上の方に挙げられていきました。下を見ると、私たちは自分の体から抜け出すところでした。私たちが体から抜け出すと、白い衣を着せられて、それから、
猛烈なスピードで上り始めました。 私たちは両開きのドアの前に着きました。それは天国の入り口でした。私たちの前で起きている事に私たちは驚いてしまいました。有り難いことに、神の御子のイエス様は私たちと一緒に居て下さいましたし、そのかたわらには二人の御使いがいて、その各々には翼が四つありました。 その御使いたちが私たちに話し始めました。でも、彼らの言っていることは理解できませんでした。彼らの言語は私たちのものとは非常に異なっていて、地上のどんな言語とも違っていました。御使いたちは私たちを歓迎していました。それから、その巨大なドアを開きました。 素晴らしい所が見えました。いろんな違ったものが見えます。私たちが中に入ると、私たちの心が完全な平和で満たされました。聖書は言っています。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。ピリピ4:7
私が最初に見たのものは鹿でした。私は友人に訊(き)きました。「サンドラ、君は僕が見ているのと同じものを見ているかい?」と彼女は地獄を見せられたときのように泣き叫んではいません。彼女は、笑いながら答えました。「ええ、エサウ、私も鹿を見ているわ!」 その時、私はすべてが本当であることを知りました。私たちは本当に天国にいたのです。私たちが地獄で見たすべての恐ろしいものはすぐに忘れてしまっていました。私たちは鹿のいる所に行きました。その後ろにはとてつもなく大きな木が立っていました!それがパラダイスの中心にありました。 聖書は黙示録2:7でこう言っています。「 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」この木はイエス様のシンボルです。キリストは永遠の命だからです。その木の後ろには水晶のような川がありました。それはとても透明で美しく、地球上では見たこともないほどのものでした。私たちはここにずっといたいと思いました。私たちは何度も主に言いました。「主よ、お願いです。私たちをここから取り去らないで下さい!私たちは永久にここにいたいです!地球に戻りたくありません!」主は答えて言われました。「 あなた方は戻って、私を愛する者たちのために私が備えているすべてのことを証ししなければなりません。私はもうすぐ戻りますし、私の報いが私とともにあるからです。」私たちは川を見ると、急いでその中に入りました。聖書のこんな言葉を思い出しました。主を信じる者は、その腹から生ける水が川々となって流れ出るであろう。(ヨハネ7:38)。川の水自体が命を持っているように見えました。私たちはその中に身を沈めました。水の中にいても外にいても普通に息をすることができました。その川はとても深く、いろんな色をした魚が泳いでいました。川の中の光と外の光は同じでした。天の光は何か特定の光源から来るのではなく、一つ一つが光り輝いていました。聖書は主イエスご自身がその町の光であると言われています。(黙21:23) 私たちは自分の手で魚を何匹かすくい上げましたが、魚は死にませんでした。そこで、私たちは主のところに走って行って、なぜ、死なないのですかと尋ねました。主は笑いながら答えて言われました。天にはもはや死はなく、泣くこともなく、苦しみもないのです。(黙21:4) 私たちは川から出て、手当たり次第にいろんな場所に走って行きました。私たちはすべてに触れ経験したいと思いました。どんなものでも家に持って帰りたかったからです。私たちは天にあるものにはことごとく驚嘆してしまいました。とても言葉では言い表すことができないほどでした。使徒パウロが天に連れて行かれた時に、天の王国にあるものの偉大さのために、言葉では決して説明できないものを見ました。(IIコリント12)私たちが見たものはとても説明のしようがありません。 次に、私たちは非常に広大な地域にやって来ました。そこはとても素晴らしくて美しい場所でした。そこは宝石に満ちていました。 金、エメラルド、ルビー、ダイヤモンドなどがありました。床は純金でできていました。それから、私たちは三冊の非常に大きな本のある所に行きました。最初の一冊は金でできていました。詩篇に神の言葉は永遠であって、神の言葉はとこしえに天に留まるとあります。(詩篇119:89)私たちは巨大な金の聖書を見続けました。 ページや御言葉はみな純金でできていました。 私たちが二番目に見た本は聖書より大きなものでした。それは開いてあって、御使いが座って本に書き込みをしていました。私たちは主イエスと一緒に御使いが何を書いているのかを見ようと近づいて行きました。御使いは地球での出来事をすべて書き込んでいました。起こっている事はすべて日付、時間もそこにすべてが記録されます。記録がなされているのは、地上の人々がそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、裁かれるためのものです。(黙20:12)その御使いは人々が地球上でおこなっていることを、善であれ、悪であれすべてを書き記していました。 次に、私たちは三番目の本のある場所に行きました。それはすぐ前の本よりももっと大きな本でした!その本は閉じられていましたが、私たちはそれにずっと近寄りました。私たち七人は主の命令によって、一緒にその本をスタンドから降ろしました。そして、それをある柱の上に置きました。 天の柱や支柱は非常に素晴らしいものです!地球上にあるものとは全く異なっています。柱はひものようなもので、それらが異なった宝石でできていました。あるものはダイヤモンドで、また、あるものは純粋なエメラルドで、またあるものは純金でできており、あるものは多くの異なったタイプの宝石の組み合わせでできていました。その時、私は分かりました。神様が本当の万物の所有者であるということです。ハガイ2:8 「 銀はわたしのもの、金もわたしのものである。」 神様が絶対的な金持ちであって、彼が全世界のすべての富を所有しておられることを理解しました。また、私は、世界とそれに満ちているすべてが神様のものであることが分かりました。そして、信仰によって求める者に神様はそれをお与えになることが分かりました。主は言われました。詩篇2:8「 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。」私たちが柱の上に置いた本は非常に大きかったので、ページをめくるために私たちがページの反対側まで歩いて行かなければなりませんでした。主が言われたので、その本に書いてあることを読もうとしたのですが、最初、私たちには理解できませんでした。奇妙な文字で書いてあったからです。それは地上のどんな言語とも異なっていました。 それは何か全く天的なものでした。しかし、聖霊の助けによって理解する恵みが与えられました。包帯を眼から取ったように、恰も自分の国の言語を読むようにはっきりと理解することができました。その本の中に私たち七人の名前が書いてあるのを見ることができました。それは命の書であると主が言われました。(黙3:5)その書に書かれた名前は私たちが地上で呼ばれる名前ではないことに気が付きました。 それらの名前は新しいものでした。これを受ける者のほかだれも知らない新しい名と神の言葉が言っている通りです。(黙2:17) 天で私たちは自分の名前を発音できましたが、いったん主が私たちを地球に戻されると、私たちの記憶と心からそれらの名前は消し去られました。神の言葉は永遠です、そして、それを実現させなければなりません。皆さん、聖書は言っています。(黙3:11) あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。天には何百万もの素晴らしいものがあります。でも、私たちの口で現すことはとてもできません。しかし、私はこのことを皆さんに申し上げます。「神様があなたを待っておられます!」しかしながら、最後まで堪え忍ぶ人たちだけが救われるのです!(マルコ13:13)
--- (2番目の証し、アリエルAriel) --- 私たちが天国に向かって出発する時、私たちはとても立派なドアのある素晴らしい場所に来ました。そのドアの前に二人の御使いがいました。彼らが話し始めたのですが、天の言葉なので何をしゃべっているのかさっぱり分かりませんでした。しかし、聖霊が理解力を与えて下さいました。彼らは私たちを歓迎していたのでした。主イエスが手を門に触られるとそれが開きました。もし、イエス様が私たちと一緒でなければ、私たちは天国入ることは出来なかったでしょう。 私たちは天国にあるすべてのもを称賛し始めました。私たちは巨大な木を見ました。聖書にはそれを「命の木」(黙2:7)と書いてあります。私たちは川に行きました。川にはたくさんの魚がいました。あらゆるものが驚くべきものだったので、友人たちと水の中に入ることに決めました。私たちは水中を泳ぎ始めました。周りに魚が泳ぎ回っているのが見えました、そして、彼らが私たちの身体に愛撫しました。地球上であるように逃げるようなことはありませんでした。主の臨在が魚を静めておられました。魚たちは私たちが魚に害を加えるようなことはしないことを知って私たちを信頼していました。一匹を掴んで水から上げても、驚いたことにその魚はとてもおとなしくしていて、私の手の中で主の臨在を楽しんでいました。私はその魚を水に戻してやりました。 遠くに天国の白馬たちが見えました。それは聖書に書いてある通りでした。(黙19:11)「 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。」 その馬たちは主がご自分の民である教会を迎えるために地球にやって来られる時に乗られる馬です。私は馬の方に歩いて行って軽くたたきました。主もついて来られて、私がその一頭に乗るのを許して下さいました。乗ってみると、地球上では感じたことにないものを感じました。その美しい所で持つことの出来る平和、自由、愛、聖を経験し始めたのです。私は目に見えるあらゆるものをエンジョイし始めました。主が私たちに用意して下さった素晴らしいパラダイスにあるすべてのものをただエンジョイしたいと思いました。 私たちはまた婚宴のテーブルを見ることが出来ました。すべての
用意が既に整っていました。それには始まりも終わりもありませんでした。私たちのために準備された椅子を見ました。また、私たちが戴く冠や永遠の命も用意が出来ていました。小羊の婚宴に招かれるすべての人たちのために既に用意されているおいしそうな食べ物を見ました。 御使いたちは主が私たちのために用意して下さっている覆いのための白い布を持っていました。そのすべてを見て私はびっくりしました。神の言葉は私たちが子供のようになって神の国を受けなければならないと言います。(マタイ18:3)天にいたとき私たちは子供のようでした。私たちはそこですべてを楽しみ始めました。 花、住居…です。主は私たちが住居の中に入ることを許して下さいました。 次に、神様はたくさんの子供たちのいる場所に私たちを連れて行かれました。主は彼らの間にいて、子供たちと遊び始められました。彼がひとりひとりと十分な時間を過ごしてくださることがはっきりしました。主は彼らと一緒にいて楽しまれました。私たちは主に近寄って尋ねました、「主よ、この子供たちはこれから地球上に生まれる子供たちですか?」 . 主は答えられました。「 いいえ、この子供たち妊娠中絶された子供たちです。」それを聞いて、私は心の中が震えました。{にんしん ちゅうぜつ}私は過去に主を知らない時にしたあることを思い出しました。当時、私はある女性と関係を持って彼女は妊娠しました。彼女がそのことを言った時、私はどうしていいか分かりませんでしたから、少し時間をくれと言いました。時が経って彼女のところに行くと、時既に遅く、彼女は中絶をした後でした。それが私の人生の心の傷となりました。私が主を受け入れた後でもその中絶は自分を赦すことの出来ないものでした。しかし、主はその日、あることをして下さいました。彼は私にあの場所に入って行くように言われ、そして言われました。「 アリエル、あそこにいる女の子が見えますか?その少女はあなたの娘ですよ。」 そう言われて、その女の子を見ました。私の魂の中に長い間残っていたものが少しづつ癒されていくのを感じました。主はその少女のところに近づくのを許してくださいました。彼女も私の方に近づいてきました。私は彼女の手を取って女の子の目を見ました。彼女の唇からひとこと、「パパ」 と言う言葉が聞こえました。神様が私を憐れんで下さり赦して下さったことが分かりました。しかし、私は、自分を赦すことを学ばなければなりません。愛する皆さん、これを読んで下さる人に申し上げます。神様は既にあなたの罪を赦してくださっています。今はあなたが自分を赦すことを学ぶ時です。神様が皆さんにこの証しをさせて下さったことを感謝します。主イエスよ、あなたに誉れと栄光を帰します!この証しは主からのものです。主がこの啓示を受けるのを許して下さいました。この証しを読まれる兄弟たちひとりひとりもこの証しの祝福を受けて下さるように、また、これを他の多くの人たちに伝えて祝福を与えてくださるように希望します。神の祝福がありますように。
--- (3番目の証し) --- (黙21:4) (神は)人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。私たちが到着したとき、この大きなドアが私たちのために開くと、花でいっぱいに満ちた谷が見えてきました。花はとても美しく、またその匂いは素晴らしいものでした。地球では決して感じられない完全な自由を感じました。私たちは心に充ち満ちた平和を感じました。しばらく花を見ていると、花がとてもユニークなことに気付きました。 各々の花弁は異なっており、純粋で、とてもユニークな色をしていました。 心の中で私は主に言いました。花を一つ手に持ってみたいです。主はうなずかれましたので花の一つに近づいて摘み取ろうとしました。でも、何も起こりません。地面から花を引き抜くことができません。花弁や葉っぱを摘み取ることさえできませんでした。その時、主が静けさを破って言われました。「 ここでは何事も愛によってしなければなりませんよ。」彼が花に触れられると、花は自分を主の御手に委ねました。それから、主はそれを私たちに下さいました。私たちは歩き続けましたが、花々の香りが私たちの周りに漂っていました。私たちは非常に美しいドアのある場所に到着しました。そのドアは単純でなくて、優れた技能によって見事な飾りがなされており、宝石が刻み込んでありました。ドアが開いて中に入ると、そこにはたくさんの人がいました。みんなが走り回って何かの準備をしていました。ある人たちは白く輝く布の巻いたものを肩に担いで運んでいます。 ある人たちは金の糸の紡錘を運んでいます。他の人たちは中に遮蔽物のある板状の物を運んでいました。みんなは走りながら懸命に働いていました。 私たちは、なぜみんな急がしそうに走り回っているのですか、と主に尋ねました。すると、主は一人の若者に近くに来るように言われました。この人は布の巻いたのを両肩に担いでいました。彼がやって来て、主を仰ぎ見ました。主が、どうして布の巻き物を運んでいるのかね、と彼に尋ねられると、彼は主を見て言いました。「主よ、この布が何のためであるか、あなたはご存知です!この布で贖われた人たちの衣を、偉大な花嫁の着る衣を作っています。」 これを聞いて私たちは大きな喜びと平和を感じました。黙示録19:8は言います: 「 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
私たちがそこを出たとき、とても素晴らしい平和を感じました。 主ご自身が私たちのために素晴らしいことをおこなって下さっている素晴らしい光景を見たからです。彼にとってあなたは大切な存在ですから、あなたのために時間と場所を用意して下さっているのです。私たちがその場所から出て来た時、天のあらゆる詳細なことは私たちの目から失われていました。それから、私たちは何百万、何千万という数の、いろんな年齢の子供たちのいる所にやって来ました。彼らが主を見ると、みんな主の愛を感じたくて、主に抱きつこうとしました。みんな主イエスが大好きでした。主がひとりひとりを愛撫してキスしたり手を握ったりしておられるのを見て私たちは泣き出しそうになりました。 御使いたちが赤ん坊たちをリンネルに包んで主に近づくのが見えました。主は赤ん坊たちに愛撫をし、額にキスをされました。それから御使いたちは戻って行きました。私たちは主に尋ねました。なぜ、こんなに大勢の子供たちがいるのですか、子供たちは地球に送られるのですか。主は一瞬何かを感じられた様でしたが、答えて言われました。「 いいえ、子供たちは地球に送られるのではありません!この子たちは地球で中絶された子たちです。彼らの両親は彼らの誕生を望まなかったのです。この子たちは私の子供たちです。私は彼らを愛しています。」私はうなずきました。それから、私は声を震わせながら主に尋ねました。私が主を知らず、彼がまことの命であることを知らなかった時、私は失敗をしました。他のだれもがやる罪を犯しました。その罪とは妊娠中絶です!私は主と顔を合わせなければならない瞬間でした。私は主に尋ねました。「主よ、私が昔中絶した赤ん坊もここにいますか?」主は「 はい」と答えられました。 私は一方の側に歩き始めました。そこに、美しい男の子が見えました。その男の子の側に御使いがいました。御使いは主の方を見ており、その少年は背中をこちらに向けていました。主が言われました。「 ほら、あなたの男の子がいますよ。」私は会いたくて男の子の方に走り出しました。しかし、御使いが彼の手で私を止めました。彼は、まず、男の子の言うことを聞きなさい、と言いました。私は少年が言っていることを聞きました。彼は他の子供たちの方を向いて話していました。それから、彼が御使いに尋ねました。「僕のパパとママがすぐ、ここに来るの?」 御使いは私を見ながら男の子に答えました。「ええ、あなたのパパとママがもうすぐ来られますよ。」こんなことばを聞く特権がなぜ私に与えられたのか私には分かりません。でも、主が私に与えて下さった最高の贈り物だということが心の中で分かりました。その子は生まれさせて貰えなかったことを知っているようでしたが怒って話してはいませんでした。彼は神様が彼の心に置いて下さった愛をもって、ただ待っているのでした。 私たちは歩き続けました。でも、私は彼のイメージを心にとどめておきました。私は一日中主と共にあるように努める必要があることを知っています。私にはそこに行く理由がもう一つあります。天国にはある人が私を待っているからです。神の言葉はこう言っています。(イザヤ65:19) 「 わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。」
主の祝福がありますように。
--- (4番目の証し) – --天国で私たちは神の言葉にあるように素晴らしいものを見ました。(Iコリント) 「 目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた。」私たちが天国に着いた時、そこには目を見張るような素晴らしいものがたくさんあり、たくさんの大きなものが、そして、神の栄光を感じさせるものがありました。たくさんの子供たちのいる所は特別でした。そこには何百万人もの子供たちがいました。 私たちは異なった年令の子供たちを見ました。天はいくつかの区画に分割されていました。私たちは2歳から4歳の子たちをかくまっているある種のベビーハウスを見ました。また、私たちは気が付いたのですが、天国の子供たちも成長するのです。そして、神の言葉を教える学校がありました。先生は御使いたちです。そこで子供たちに礼拝の歌や主イエスを賛美する方法を教えます。 主が到着された時、私たちの王の大いなる喜びを見ることができました。私たちには彼の顔を見ることはできませんでしたが、彼の笑いは見ることができました。それがその場所全体を満たしました。彼が到着されると、すべての子供たちが彼に走り寄って行きました!その子供たちの中に主イエスキリストの地上での母親マリアを見ることができました。彼女は美しい女性でした。彼女は王座にはいないし、だれも彼女を礼拝してはいませんでした。彼女は天国にいる他の婦人たちと同じで、地上の他の人たちと同じように自分の救いを獲得しなければなりませんでした。彼女は白い衣を着、ウエストには金のベルトを締めていました。彼女の髪はウエストまで達していました。 地上では多くの人たちがイエスの母親であるマリアを崇拝しているのを聞いてきましたが、皆さん、よろしいですか、神の言葉はこう言っています。「 わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)唯一、天国への入り口はナザレのイエスご自身です。また、私たちの気が付いたことは、太陽や月がないことです。神の言葉はこう言っています。(黙22:5)「 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照らし、そして、彼らは世々限りなく支配する。」私たちは神の栄光を見ることができました。私たちが地獄で見た恐ろしい事柄を説明するのは困難ですが、天上の事柄と私たちの造り主の完全さを説明するのはさらに困難なことです。私たちがそこに居た時には、何でも見たいと思って走り回りました。私たちは草の上に寝て、神様の栄光を感じることができました。そよ風が私たちの顔にそっと愛撫しました。それは何かとても素晴らしいものでした。 空の中央に純金でできた巨大な十字架を見ることができました。それは偶像礼拝のシンボルではなく、それ以上に十字架上のイエス様の死を通して私たちは天国に入ることができることを示すシンボルであるように私たちは信じています。 私たちは天を歩き続けました。主イエス様と一緒に歩いているとうっとりしてしまいました。ここではっきり分かったことがあります。私たちが仕えている神様、ナザレのイエスがだれであるかです。地上にいる私たちの多くは高い所に神がおられて、私たちが罪を犯すのを待ち構えていて、罪を犯すと私たちを罰して地獄に送る方と考えます。しかし、それは真実ではありません。私たちはイエス様の別の面を見ることが出来ました。友人であるイエス様、あなたが泣くとに一緒に泣いて下さるイエス様、イエス様は愛、同情、そして憐れみの神です。 彼は私たちが救いの道を歩き続けるのを手を取って助けて下さるのです。 また、主イエス様は私たちに聖書の人物に会うのを許して下さいました。私たちはダビデ王に会いました。聖書に語られているダビデ王です。彼は背が高くてかっこいい男性でした。また、彼の顔は神の栄光を反映していました。私たちが天国にいる間ダビデ王がしたこととは唯一ダンスでした。ダンス、ダンス、ダンスをして、栄光と誉れのすべてを神に帰していました。 この証しを読んで下さっている人たちに申し上げたいのですが、神の言葉にこう言われています。黙21:27「 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」またもうひとつ、勇敢な人が神の国を掴み取るのです。神様があなたを祝福して下さいますように。
--- (5番目の証し) --- (IIコリント5:10)
私たちは天国で聖書に言われている新しいエルサレムを見ることが出来ました。ヨハネ14:2「 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」私たちはその町を見ることが出来てその中に入りました。それは本当の、そして、素晴らしい都市です!イエス様は私たちのためにその家を準備しに行かれたのでした。その町の中にはそれぞれオーナーの名前の付いた住まいまたは家を見ることができました。しかし、まだだれも住んではいませんでした。私たちのために用意されているのです。私たちはその家の中に入ることを許されて、中にあるものをすべて見ました。しかし、後で私たちがその町を離れた時には私たちが見た物はすべて忘れてしまっていました。その記憶が私たちから取り去られたのでした。しかしながら、家々の柱が貴金属でメッキを施され、それにいろんな種類の宝石がちりばめられていたことを覚えています。純金も含まれていました。 この都市の金は聖書が説明しているように、ほとんど透明で、とても輝いています。地球上の金とは光沢と美しさにおいて天の金とは比較になりません。 この後、私たちはたくさんの容器のある所に連れて行かれました。その容器の中には結晶化された涙が入っていました。それは神の子たちが地上で流した涙でした。それは不平の涙ではなく、神の臨在の中で流した涙であって、悔い改めの涙であり、感謝の涙でした。神様はその涙を貴重な宝として天に蓄えておられるのです。次に述べられている通りです。詩篇56:8「 あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書にしるされているではありませんか。」
私たちはまた大勢の御使いたちのいる所に来ました。天にはいろんなタイプの御使いを見ることが出来ましたが、この場所にはひとつの特別のタイプの御使いたちだけがいました。イエス様はひとりひとりに特定の御使いを用意しておられることを見せて下さいました。またその御使いは私たちが地上に存在している間私たちの近くにいることをも示して下さいました。主は私たち担当の御使いを紹介して下さいました。彼らの特性を見せてもらいましたが、神様はそれを他の人たちに明かすことを許されませんでした。詩篇ではこう言っています。詩篇91:11「 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。」
私たちはたくさんのロッカーのある所に来ました。その中にはたくさんのいろんな花がありました。ある花たちは開いていて美しく輝いていました。しかし、ある花たちはうなだれており、またある花たちはしぼんでいました。私たちはイエス様にこのすべての花たちの示す意味は何なのですかと尋ねました。イエス様は答えられました。「 花たちの様相があなた方ひとりひとりの命を示しているのです。」彼は輝いている花の一つを取って言われました。「この花はあなたが私と持っている交わりの状態を示しています。」彼はその花を置いて、もう一つの垂れ下がった花を取って言われました。「ご覧、この人はダウンしていますよ。彼らが試みあるいは困難に会っているからです。この命には私と交わりを妨げている何かがあります。彼らがダウンしている時に彼らを健康にして輝くようにするのに私がこの花に何をするか分かりますか?」 そこで彼は花を手に取って言われました。「私が彼らの上に私の涙を注ぐのです。そうすると、彼らは起き上がるのですよ。」私たちはその花が再び命を得て力強く立ち上がり、その色が蘇る様を見ました。それから、主は一本のしなびた花を取って、それを火の中に投げ込んで言われました。「 ご覧、この人は私を知っていましたが、私から離れ去って行きました。今、彼は私なしに死んで火に投げ込まれました。」(ヨハネ15:5-6)私たちがそこを離れた時、非常に遠くの方に美しいお城が見えました。だれも敢えてその城に近づいた人はいません。あれは聖書が黙示録22:1で言っているものだと信じます。「 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、」そのお城は恐らく神の臨在と御座の近くにあるものと私たちは思います。私たちが天国にあるこれらのものを経験している間に、私たちの心は喜びでいっぱいになっていました。理解を遙かに超えた平和がありました。(ピリピ4:7) 私たちは1ペテロ1:4の御言葉が理解できました。「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。」
--- (6番目の証し) --- (ルカ22:30)「 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。」驚くべき所を、神様は宇宙の他のどんな所にも存在しない非常に美しいレセプションホールを私たちが見るのを許して下さいました。私たちは二つの椅子のある巨大な玉座を見ました。それは地球にも存在しない純金と宝石でできていました。その巨大な御座の前にはテーブルがありましたが、そのテーブルの端がありません。その上には白いテーブルクロスがありました。それはとても白くて、地球上にあるものとは比較にならないほどでした。 あらゆる種類の素晴らしくて洗練された食べ物がテーブルにセットされていました。オレンジサイズのブドウがありました。主イエスキリストは私たちにそのいくつかを味見をさせて下さいました。その味は今でも覚えています。とっても素晴らしいものでした!兄弟たちと友人の皆さん、天国で用意されているすべてのものや、神様が既に準備して下さっているものを想像することはとてもできないでしょう。(Iコリント2:9)テーブルにはまた、神様は私たちにパン、「マナ」を見るのを許して下さいました。これは聖書が告げている神様のパンです。私たちは地球にさえ存在しない他の多くの素晴らしいものを味わって楽しむのを許されました。 これらのものは天国の朽ちることのない嗣業として私たちを待っています。私たちが天国を受け継ぐ時、驚くべき素晴らしくておいしい食べ物をエンジョイするのです。私たちはテーブルの両側に椅子が置いてあるのに驚きました。その美しい椅子にはそれぞれ名前が付いており、それらの椅子にははっきりと私たちの名前を読むことができました。しかし、その名前は私たちが地球で持っているものと同じではありません。それは私たち以外知ることの出来ない新しい名前です。 (黙示録2:17) 神の言葉に書いてあることは驚くべきです。「 しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)たくさんの椅子がありました!天国に来たい人たちみんなのためには十分なスペースです。また、テーブルからはずれた所にある椅子がありました。それは神様に仕えるのに飽きた男女がいることを示していました。そして、彼らの名前は命の書から消されて小羊の婚宴からは外されます。 神様はまた聖書の人物に会うのを許して下さいました。聖書の中で私たちが読む素晴らしい聖徒たちです。アブラハムに会った時、私たちはびっくりしました。アブラハムは年長者でしたが、身体的でも容貌においてでもありませんでした。アブラハムの髪は真っ白でした。髪の毛一歩一本はガラスのフィラメントかダイヤモンドのフィラメントのようでした。私たちが最も驚いたのは、彼が私たちよりも若いということでした。天においては私たちはみな若返ります。私たちはまた彼の言葉に驚きました。アブラハムは何か私たちが忘れることの出来ないことを語りました。彼は私たちの天国訪問を歓迎してくれました。そして、私たちは間もなくそこに居ることになると言いました。主イエスキリストの再臨の時が急速に迫っているからです。 |